仏師 中川 大幹さん(米原市在住・62歳)
仏の姿を彫刻に表した仏像。これを作る職人は「彫刻家」ではなく「仏師」と呼ばれる。仏師が仏像を作るとき、「仏を彫り出す」とはいわず「仏を迎える」という。米原市に工房を構える中川大幹(なかがわだいかん)さんは、23歳で仏師の道に入り約40年。昨年秋、高さ3㍍の仁王像を完成させた。寺に納められる2月末まで米原市の「伊吹の見える美術館」で公開されており、見る人の心を響かせている。
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仏の姿を彫刻に表した仏像。これを作る職人は「彫刻家」ではなく「仏師」と呼ばれる。仏師が仏像を作るとき、「仏を彫り出す」とはいわず「仏を迎える」という。米原市に工房を構える中川大幹(なかがわだいかん)さんは、23歳で仏師の道に入り約40年。昨年秋、高さ3㍍の仁王像を完成させた。寺に納められる2月末まで米原市の「伊吹の見える美術館」で公開されており、見る人の心を響かせている。
中川さんが仏師の道を歩み始めたのは23歳のとき。この世界では遅い方だった。
中学生のとき、たまたま仏師の仕事を紹介するテレビ番組を見て強い衝撃を受けたが、そのまま工業高校へ進み、卒業後も普通の会社に就職した。工場で製造された計器をチェックする仕事で、給与も良かった。だが、どこか満足できず1年で退職。その後、伯父の洋装店で縫製を学んだり、機械設計の仕事をしたがいずれも長く続かなかった。
そこで、人生を一から立て直そうと考え、子どものころから絵が得意だったことから名古屋造形芸術短期大学に進学し、日本画を専攻した。今度は在学中に進むべき道をしっかり決めようと「多くの人との出会いを積極的につくっていこう」と心に決めた。
ある陶器の絵付けの先生に会いに行ったときは、玄関に足を踏み入れた瞬間、追い返されてしまった。
一方で、徳川美術館(名古屋市)の熊沢五六館長(当時)から日本画の薫陶を受ける幸運に恵まれた。
そんなとき、古書店で運命を左右する一冊の本と出合った。「京仏師60年」。読んでいくうちに「自分がやりたいのはこれだ!」と確信し、すぐに著者の大仏師・松久朋琳(まつひさほうりん)氏が住む京都に向かった。朋琳氏は「23歳ではもう仏師になるには遅い」と門前払いしたが中川さんは諦めなかった。京都に下宿先を決め、工房に日参して何とか雑用の手伝いをさせてもらった。大学には京都から通って卒業。8カ月ほど経ったある日、朋琳氏から「お前、どこの誰や?」とからかわれながらも正式に弟子入りが許可された。
「後で分かった事ですが、中学生のときテレビ番組で感銘を受けた人は、朋琳先生だったのです。仏様のお導きです」
朋琳氏とその子・宗琳(そうりん)氏の両師匠の下で約8年間修行。技だけではなく仏師としての心構えも学んだ。
「仏を彫るのではなく、仏を迎えるのが仏師の仕事」「仏は木の中にいる。木くずを払いのけるのが仏師の仕事」「この仕事をする者は生まれる前からこの仕事を約束されて生まれてきたと自覚せよ」。
仏師と彫刻家は違う。彫刻家には芸術家としての個性が必要だが、信仰の対象となるものを彫りだす仏師は自我を持たず、一心にノミを動かすだけ。ただし、常に仏を迎える準備をしておかなければならない。毎日一つ何かを磨くことで魂が磨かれ、慈悲の心が育つと教えられた。
修行中、師匠が彫っている仏像を夜中にこっそり持ち出し、真似をしたことがあった。師匠はこれを知りながら「これは私の作品かな?」と冗談を言い、「何十人と弟子はいるがここまで模刻したのは初めてだ」と、言われたことが忘れられないと中川さんはいう。
「計器のチェック、絵の勉強、縫製、機械設計……随分遠回りでしたが、これらによって忍耐力や造形力が養われ、今もこれが生かされています。人生に無駄なものはありません」
(取材・福本)
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